You-Nous

ドキュメンタリーに特化した映画レビュー。社会不適合者が生きやすくなるための資料室。<Film-reference>

【スワロウテイル】多様性とカルチャー

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第二回もドキュメンタリーではなく、映画であるという横暴。
いやしかし、私の意図する【film-reference】ではいくつかの必須映画がある。

このブログを続けるにあたり、裏テーマとしてきちんと定義づけをしていきたいからである。

ただの映画紹介ブログはもういらない。

 

生きるために何かを感じ取るきっかけのreferenceでありたい。

 

 

スワロウテイル

“むかしむかし、“円”が世界で一番強かった頃、いつかのゴールドラッシュのようなその街を、移民たちは“円都(イェンタウン)”と呼んだ。でも日本人はこの名前を忌み嫌い、逆に移民たちを“円盗(イェンタウン)”と呼んで蔑んだ。ここは円の都、イェンタウン。円で夢が叶う、夢の都。
そしてこれは、円を掘りにイェンタウンにやって来た、イェンタウンたちの物語り。”
(冒頭より)

■圧倒的映像美と芸術的音楽が織りなすクラウディな世界。

岩井俊二監督による圧倒的な映像美。

最初から最後まで一貫して美しい映像の連続。

まず、冒頭の死体を確認する陰鬱な場面でさえ、美しく見える。

全体的にグリーンとグレー、陽の光とタバコの煙の霞がかった色味が
死体安置所と横柄で差別的な警察官の無味乾燥がヒシヒシと伝わってくる。

名もない少女は、住んでいたところを追われ娼婦の元へと押し付けられる。

その道中も街並みが同じような色味で描かれてはいるが、街に住む人たちは様々で柄物の布団や、着ている洋服が鮮やかで現状と真逆で華やかである。

岩井監督は陽の光を大事にすると聞いたことがあるが、この作品では特に陽の光がすばらしく活躍していると感じる。

けっこう喫煙シーンがあるのだが、そのタバコの煙が陽の光を受け鮮やかな部屋に“白”のアクセントとしていい味を出している。

 

グリコの部屋はもちろんおしゃれで鮮やかなのだが、主人公のアゲハが身売りされそうになる風俗店でさえも艶やかである。

 

小林武史CHARA

小林武史氏はこのスワロウテイル以外にも岩井監督とタッグを組むことが多い。以降の作品【リリィシュシュのすべて】でも影の主人公“リリィシュシュ”にSalyuを推したのも小林氏だそうだ。

 

冒頭に流れるBGMは物悲しく繊細で、その上壮大である。

 

さらにはバンドで歌うCHARAは圧巻で、ただのJ-POP歌手というカテゴリーで括るのが憚られる。
特に酒場で歌うCHARA、いやアゲハは最高にクールなのだ。

 

■他人事ではない世界観“円都”と“円盗”

"円"が世界で一番強かった時代”という設定で、その“円”を求めて外国人がひしめいているという環境である。

もちろん正当に働いている人も存在するのだろうが、この映画ではほとんどが違法労働者である。

日本人はそういった違法労働者を指し、蔑称として“円盗”とよんでいる。

 

岩井監督はそこまで考えているかと言われればそうではないかもしれないが、
私がこの映画から読み取ったのは3つである。

 

1.“円都”=社会、“円盗”=社会で生きにくい人たち

違法労働者、ここでは移民と表現されている。
グリコとアゲハが住むアパートの隣の住人は元ボクサーの黒人
アーロウである。
この映画での世界観としてはおそらく日本も欧米諸国と同じような人種環境にあると考える。
欧米でも少なからず差別があるようにこの世界観での外国人、特に黒人という存在は被差別民として描かれていると思われる。

だから娼婦のアゲハと同じ見窄らしいアパートに住んでいるのでないだろうか。

社会からはみ出た者、生い立ちや人種、さまざまな違いによって迫害や差別を受けているものがいかにして生きるかが描かれた作品ではないだろうか。

 

それは他人事ではない。
もちろん身の回りに普通に違法労働者がいる環境はそんなに多くないし、
なによりまず建前上差別は最低なことだと言う認識を持って生活をしている。

しかしどうだろう。
学歴や出身地、生い立ちにおいて目に見える形の差別ではなく、なにかにかこつけた“区別”とされるものが今の日本にも横行しているのでないか。

過剰な自己責任論によって、“区別”される“円盗”が実は今の日本にも存在するのかもしれない。

 

2.幸せとはいったい何か?

フェイフォンがグリコに運命について語る一幕がある。

 

(フェイフォン)

“運命のしわざだ。
テレビも洗濯機も、その傘もみんな古くなって壊れてしまいにはお釈迦になるのが運命さ。

-中略-

天国はあるんだぜ。でもだれもたどり着けないのさ。
お前が死んでその魂は空へ飛んでいく。
ところが雲に触れた途端雨になって落ちるのさ。
だから誰も天国なんて見れないのさ。

それで最後にいく場所を天国って言うなら、ここが天国ってわけかい?”

 

フェイフォンはアゲハが死んだ母のことを話しているとき、一応慰めようとしたようだ。
“天国があるかわからない。死んだママはただ壊れていただけでどこへも行かなかった。”と語るアゲハにかけたセリフである。

本人は“今作った話”と言っているが、おそらくフェイフォンの価値観であると感じる。

はからずもそのことにフェイフォン本人もそのときに気がついたのかもしれない。

 

なぜならば、セリフの終わりが“最後にいく場所を天国って言うなら、ここが天国ってわけかい?”とまるで自問自答のような形になっている。

それはおそらくフェイフォンがこの悲惨で見窄らしい生活、金のために、生きるために悪いことでもしなければならないような生活にさえ、
“幸せ”を感じていたからではないだろうか。

 

すでに今いる世界が天国だと、アゲハを慰めるために作ったホラ話が自身の死幸せを証明したのかもしれない。

 

3.“サードカルチャー”、そして多様性。

この映画の最大の特徴といえば、複数の言語が文字通り“混ざって”展開されることにある。

 

序盤のグリコと友人の会話も日本語と英語、そして中国語が混ざっているし、
リャンキがしゃべる日本語も英語が混じったり、中国語が混じったりするし、
何より気になるのはリャンキの日本語が若者言葉が土台になっていることだ。

「テープだよ!なんでジャナイノ、ありゃマニアにとっちゃプレミアなんだヨネ。」極め付けに接続詞に「でさ!」。

意味はわかるが、わからないような言葉遣いはまるで仲間内だけで通じる若者言葉、というか口調である。

 

言葉や複数の言語のことばかりで“まぜこぜカルチャー”と言えるのかというになるが、言葉や言語というものはその環境を表す大きな要因であると考える。

 

この世界では日本語、英語、中国語が交わっているカルチャーが展開されてることは明白である。
しかしグリコを発掘したレコード会社は逆に今の日本、要するにスーツを着てお偉いさんがいて会議や話し合いをするようなテンプレート的な人間も存在する。そういった人間は金儲けのため、グリコやフェイフォンを翻弄する。

むしろ今の日本よりも資本主義的な考えが進んだ世界と考えるとしっくりくるかもしれない。
“円”が強い世界というのは資本主義が進んだ結果、移民が被差別民となり、
スーツを着た日本人に搾取されること、いわゆる「金を持っている人間が持っていない者や他者と違う者を者搾する」ということを示唆しているのかもしれない。

 

その中でアゲハは“円盗”ではない、移民ではないのだ。
しかしアゲハは2世としての生活を余儀なくされている。

 

バンドのスーパバイザーとして現れた男は、言う。

 

“このルックスのおかげでどこへ行ってもガイジン扱いだ。でも間違いなくこの国で生まれて、この国で育っちまったんだよ。この国しか祖国はないだろ?”

 

“あんたたちはいいよ、帰れる祖国があるから。円盗には故郷がある。
(中略)あんたみたいな二世も日本人は区別してはくれないんだよ。
自分達や二世には別の呼び名が必要なんだよ。”

 

“サードカルチャーキッズ!!”

 

スーパバイザーの彼は終始お調子者、ムードメイカーのようなキャラ付けで描かれているが、まさにこの“サードカルチャー”を体現したようなキャラである。

むしろグリコやフェイフォンは彼の戦略でライブハウス中心で活動した方がよかったのではないかという疑念さえ浮かぶ。
お調子者で軽い感じで信用するには少し難しいが、自分と同じ境遇のバンドメンバーをきちんと揃え、しかもそのバンドメンバーは凄腕だったりする。

彼の人間性まではわからないが、彼の並々ならぬ“サードカルチャー愛”は本物だったのかもしれない。

 

さて、多様性と言う言葉を最近よく聞くが、私ははっきり言って全世代の“個性”ブームとさして変わらないと感じている。
個性という本質を理解せずにとりあえず大事だと言っておく。
たくさんの人がそう言っているから正しいのだろう、という思考停止。

今まさに“多様性”もそういった思考停止が加速する装置に成り下がるように思う。

 

あえて言うならば、この映画にこそ“多様性”はある。

 

国家間や移民、違法労働、娼婦、そういったものは色付けでしかない。
スーパバイザーの彼に言わせると、“サードカルチャーこそが多様性だ!”ということかもしれない。

 

スワロウテイル、“円都”は理想郷

私にとって“円都”は理想郷である。

さまざまなカルチャーが混在しており、それがアイデンティティの層まで浸透していてる。

さらに各カルチャーで住み分けがされていて、干渉されていない状態。
例えば“阿片街”は無法地帯として描かれているし、リャンキのようにヤクザとの抗争も、同じ“円盗”でありながら無関心な様子である。

 

中盤から巻き込まれる事件はまさに、その住み分けを犯してしまったばかりに起きた事件である。

 

どんな状態でも受け入れられることで人は生きていける。

フェイフォンは自身が幸せだったことに気づいた。
イカサマで車の修理をしながら生きることでさえ、幸せだったのだ。

 

彼が歌う“My way”はまさにその幸せを自覚したからであろう。

 

今の世界で、最期を迎える時に“My way”を歌えるだろうか。